私の下の娘は、ひどくぐうたらである。家ではたいてい寝転がって過ごしており、二人掛けソファに横たわっては、スマホを顔の前にかざし、動画を見たりゲームをしたりと、器用にいろんなことをこなしている。
小さくて、逞しくて、明るくて、ころころと健康そのもの。よく食べ、よく眠り、視力も超人的によい―― そんな愛らしい娘、25歳。
こういうのを「親の欲目」というのだろうけれど(笑)。
とにかく、娘は毎日が楽しそうで、私よりも暢気に見える。
私がやっとの思いで手に入れた「暢気生活」は、実は手を伸ばせば届くところにあったのか。
あの子はどうしてあんなに暢気でいられるのだろう。……まあ、顔には出さない苦労もあるのだろうけれど。
それでも、楽しそうな娘を見るのは、親としてこの上ない喜びだ。
でも、ふと考える。
大事な点はどこなのか?
私は娘よりも、もっと暢気に暮らしていいはずではないか。
暢気な振る舞いが、暢気生活を引き寄せるのかもしれない―― そんな気がしてきた。よし、試してみよう。
娘と同じ格好をしてみたら、どんな気分になるのか?
私の、小心者で実験好きな性分に、むくむくと好奇心が湧いてきた。
娘のように、寝転がりながら何かをしてみよう。
とりあえず、まずは形から入ってみることにした。
まず決めたのは、以下の2点。
・服装はギリギリ外出できる程度のものがよい
・手の届く範囲に必要なものを揃えておく
……ここまでは順調だった。ちょっと考えれば分かることだ。
しかし、肝心の「寝転がって何かをする」という行為が、想定外に難しかった。
私の年齢がネックになるのか、寝転がってスマホを見るのが……しんどい。ムリだ。
このままでは暢気は手に入らない。
そこで私は妥協案を考えた。
・身体は必ず斜め45度以上に倒す!
この新スタイルで、私は再び挑戦してみたのだった。
ここでちょっと余談を。
ChatGPTによれば、「形から入る」ことには、やる気が出る・スイッチが入る・習慣化しやすい……と、なかなか理にかなった理由があるらしい。
なるほど、娘が暢気でいられるのも、この“形”がポイントかもしれない。
とはいえ、「暢気を目指してぐうたらする」のに、やる気ってどうだろう?と思いつつ……私は忠実に娘に倣ってみた。
パソコン操作はさすがに寝転がってはムリだったが、YouTubeを観るときは、わざわざ寝転がった。
背もたれに寄りかかるのではなく、できるだけ斜め横に身体を倒す。…… これが、かなりリラックスできる!
ただし、午前中は「あれもこれも」と気になることが多すぎて、落ち着かない。
用事をひと通り済ませた午後の方が、のんびりと暢気な気分に浸れる。Nice!
音楽も同様に、午後の方が時間を気にせず楽しめる。
本を読むとき……これはダメだった。
スマホや書籍くらいの重さでも、寝転がったまま長時間はNG!
特に、読書には光が必要なのがネックになる。
Audible(オーディオブック)を聴く。……これはいい、実にいい!
すぐに集中できるので、午前・午後を問わず、リラックスできる。
セレブがラウンジチェアに半分眠るような姿勢で、優雅に音楽を聴いている姿が思い浮かぶ。
なるほど納得だ。
……だがしかし、リラックスと暢気は違う。
「じゃあ“暢気”って何だろう?」
私が娘に感じている、「肩の力の抜けた、生き方としてのゆるさ」。
それこそが、まさに暢気そのものだと思う。
では、この実験の中で、私はいつ“暢気”を味わったのか!?
結論からいうと――
それは、寝転がって何かをしている瞬間ではなかった。
“ぐうたらする時間”が私の日常に定着してから、だったのだ。
私の中で、有意義なぐうたらが、日々の活力と余裕へと昇華され、
気づけば、常に“暢気な気分”で過ごせるようになっていたのかもしれない。
恐るべし、「ぐうたら道」。
ぐうたらの道は、私に“心を整え、ゆったりと生きる術”を教えてくれた。
―― 私は何かに臨むとき、自分のためのシナリオを書き、イメージトレーニングを繰り返す。
その小心ぶりは、友人に電話をかけるときでさえ発揮されるほどだ。
そんな私が――
今、暢気で、身体が満たされている。
ただ当たり前のように、自分がここに存在している。
深呼吸が、心地よい。
―― そして、長年連れ添ったネコが傍らにいると、なおよい。